上の写真は 『砲側庫』 だと思われます。風雪にさらされた為でしょうか ? 半分、地下に埋まったような外観になっています。

下の写真は砲台の上部へと上がる為の階段です。かなりの急勾配です。



『芸予要塞』 とは、『芸予諸島』 の北の 『大久野島』、それに南の 『小島 (今治市) 』 の2ヶ所に設置された砲台の事です。
双方共、南部、北部、中部と3ヶ所に砲台が設置されていました。現在、『小島』 の方にも 『砲台跡』 が残っております。

色々な面白いモノが設置されています。いわゆる 『パラダイス系』 です。

この設置物は穴を覗くと、望遠鏡になっており、対岸の島々をドアップで見る事が出来ると言う、冷静に考えて見ても、子供でさえ絶対に喜ばないような、『すっとこどっこい』 なモノです。

しかも、望遠鏡の先に見える島の名前が、ご丁寧にプレートに貼られています。『恐るべし、大久野島・展望台』・・・


『展望台』 には 『大鉄塔』 の高さを分かり易く解説した、等身大以上のメジャーや、難しい方程式まで記載した “アリガタ迷惑” な看板まで設置されています。

結果から言いますと、この 『大鉄塔』 の高さは46mと言う事が、看板内から見て取る事が出来ます。それさえ分かればOKだと思うので、過度に複雑な方程式を書く事もないのでは ? とは思いますが・・・

まぁ、『パラダイス系』 ですから、一部の 『鉄塔マニア』 の方にはたまらないスポット ? なんでしょうね・・・たぶん。


『発電所跡』 の前には 『立ち入り禁止』 の看板が出ています。廃墟マニアの方にはたまらないスポットかとは思われますが、経年劣化はいなめません。倒壊の恐れがないと言えば嘘になります。

こういった場所では
『何が起こるか予測は不能です。』 なので、立ち入る事はお薦めしません。と言うより、立ち入らないで下さい。全て自己責任にて慎重な行動をお願い致します。

ちなみに、心ないマスコミや、サイトの中には、『西日本屈指』 の 『心霊スポット』 とか 『写真には、必ず何かが写る』 とか、変な好奇心をあおるモノも少なくはありません。確かに、ネタにはなるとは思います。事実、大きな事故が発生したり、色々な実験が行なわれた事も事実ですが、どこの 『戦争史跡』 も、悲しい歴史が沢山詰まっています。

個々の感覚にまで、立ち入る権利はありませんが、そう言った一面からは、離れた立場で見学して頂くと、より客観的に歴史を知る事が出来るのではないでしょうか ?

外部には、建物全体に枯れたツタが巻きついています。ガラスは殆どが割れて残っていません。オマケに窓のフレームも風雪にさらされ、錆て曲がり、中には建物から今にも落ちそうな物も沢山ありました。

インターネットとかで写真を調べた際、建物の外部には、青々としたツタが生き生きと自生して、不思議な躍動感を感じたのですが、冬季だった為でしょうか ? 僕が訪れた時は、ご覧のとおり、冬枯れ状態の、寂しい感じがいなめない物でした・・・

さしずめ、巻きついたツタが、建物を絞め殺しているような悲壮感さえ感じてしまいます・・・

『毒ガス資料館』 です。実際に使用されていた防護服などを展示した、非常に見ごたえがある上、勉強になる資料館です。

『平和学習』 にはもって来いの場所だと思います。子供の頃から、このような施設を見学させ、人の命の尊さを徹底して教え込むというのは、大切な事だと思います。
こんな事を思う事自体、僕の考えは、すでに 『古い』 考えの人間なのでしょうか?
ところで、 『入場券』 は 『自動発券機』 になっていますが、『無人のうどん屋』 にある、『券売機』 のようなスタイルをしています。ちょっと、微笑ましい感じで、気分を和ませてくれます。
ちなみに館内展示品は 『撮影禁止』 となっております。


て、島の地図を見ながら、レンタサイクルで最初に目指した場所は、『展望台』 です。地図で見たトコ、おおよそ、島の中心部に位置していました。1時間位しか時間のゆとりが無かった為、まずはともあれ、島の外周がぐるり、360°見渡せる 『展望台』 を目指してペダルを踏んで行きました。

すると、どうでしょう、急な上り坂を2〜3分程登ったトコで、偶然 『南部展望台跡』 に出くわしました。
限られた時間の中で、無駄な経由をする事なく、通り道に 『史跡』 があるとは超ラッキー ! 『展望台』 へ行く前に、少し立ち寄る事にしました。

ここも他の広島県内の砲台同様、『広島港』 や 『呉港』 を守る、いわゆる 『芸予要塞』 として設置された物です。

上の写真の一段高くなっている真ん中の部分が砲座です。とは言え、現状の保存状態は残念ながら非常に悪く、当時は8門の大砲が装備されておりましたが、現在は、4門の砲台跡が残るだけです。

下の写真は、この砲台跡の説明を記載した立て看板です。廃墟に近い 『砲台跡』 ですが、こう言った看板がきちんと設置してあるのは、大変に好感が持てるトコです。

ちなみにこの 『南部砲台』 が施工されたのは 『第二次世界大戦』 ではなく、『日清戦争後』 の1894年〜1895年頃との事。
『瀬戸内海』 を経由して、攻めて来る敵艦隊への防衛ラインとして、大きな役割があったそうです。

偶然とはいえ 『南部砲台跡』 を見学する事が出来て、時間や労力を短縮出来ましたが、やはりゆとりがある訳ではありません。時計を気にしながら、当初の目的地だった 『展望台』 へと、改めてペダルを踏んで行きました。
ただ、日頃から運動不足なので、自転車に乗って、『展望台』への急な上り坂を登るのは、非常に過酷な事です・・・

『押せばいいじゃん』 と言われそうですが、何だか、久しぶりに自転車に乗ったもんだから、気分だけは高校生の頃に戻ってしまい、『昔はこれ位の登り坂なんて、楽勝だったぜ ! 』 、 『チャリンコを押して歩くなんて邪道だせ ! 』 、『サイクリングは裸に限るぜ (コレは冗談です・笑) 』 ・・・と、まぁ、年甲斐も無く、ムキになったまではよかったモノの、結果から言えば、『展望台』 のはるか手前で足はガタガタ、息は絶え絶え・・・(苦笑)。自転車に支えてもらうがごとくの体勢で、押して歩くハメになりました。 『昔取ったきねずか』 とは行きませんでしたね・・・(涙) 。

標高100mの、比較的気軽に行ける 『展望台』 です。『パラダイス系』 の色々な設置物があるので、突っ込みどころ満載です (笑)。個人的には大好きです !

『国民休暇村』 からレンタサイクルで15分 (押しても ? ) 程度で山頂征服です !
この 『展望台』 から見る景色は文句なしの絶景ですよ。


さて、『展望台』 では、息の上がった状態が少し落ち着くまで (笑) 座って休息を取った後は、『中部砲台跡』 へと向かう事にしました。位置的には大変に近く、『案内看板』 も配置されている上、複雑な場所ではない為、道に迷う事もないと思います。
『展望台』 から見える 『大鉄塔』 のたもとになりますので、一度 『展望台』 の階段を下りて、道路を横切れば、すぐに 『中部砲台跡』 へと到着します。所要時間約45秒 (笑) ・・・
前記したように、時間のゆとりが、1時間程度しかなかったので、隣合わせにあるのは、非常に有難い事でした。

『毒ガスの貯蔵庫』 に使用されていただけあって、外観の第一印象が、重々しい古い建物と言った感がいなめません・・・
規則的に並んだレンガ群が、そう言った印象を更に強めてしまうのではないでしょうか ? ちなみに、こちらにも立て看板が設置されていました。

補足ですが、写真内の “AA” の部分が 『大鉄塔』 になります。この 『砲台跡』 が 『大鉄塔』 のたもとにある事がお分かり頂けるのでは ? と思います。また、同時に、さすがに 『大』 が付くだけの事がある 『鉄塔』 の大きさもお分かり頂けるのではないでしょうか ?



ところで、時間を見たトコ、この時点でフェリー出発まで、残された猶予は僅か20分足らず・・・そろそろ、『国民休暇村』 に戻らなければイケません。とは言え、現在地は島で1番高い場所です。後は、チャリンコで下るだけです。

皆さんも子供の頃に経験ありませんか ? 高い場所までチャリンコで上がり、下る時の爽快感を味わう・・・ それは、場所が高い程、下る時間が長く、爽快感も増します。例えば、上るのに1時間かかったとしても、下る時は僅か10分程度だったりしますが、でも、それが子供心にとっては、何とも言えない贅沢に感じたモノです。

今回も、戻る時は下り坂だけでしたから、子供の頃に風を感じた、あの爽快感を久しぶりに味わう事が出来ました。日頃、車ばかり乗っているので、もの凄く新鮮な気分になりましたよ !

戻る途中、桟橋前を経由する事にしたのですが、道すがら、『発電所跡』 に寄って、残された僅かな時間で見学する事にしました。


当時、この 『発電所』 は 『重油』 で稼動していたそうです。なので、正式には 『火力発電場』 と言うのが正解です。当初、内部には 『240ボルトの発電機』 が 『3台』 だけ設置されていましたが、1933年に 『3.3キロボルト』 の発電機を 『3台』、1934年にはさらに 『2台』 増設しました。それだけではなく、1941年には対岸の 『広島電気(株) 忠海変電所』 から 『海底ケーブル2本』 を使用して、『22キロボルト』 を受電して、併設の設備とコラボ ? しながら、敗戦まで 『地図から消えた島』 の電力をまかないました。

『発電所跡』 の前の広場にも、ウサギがいて、愛想よく近寄ってきますが、実はこの広場のあたりでは、『第二次世界大戦中』 に 『動員学徒女生徒』 達が、『風船爆弾』 の 『気球部分』 を製作した場所でもあるそうです。やはり、こういった 『戦争の史跡』 を見学すると、マインド的には重かったりしますね・・・


ちなみに国としては、正式にこの施設を保存、修復させる気はないそうです。いわゆる、朽ちるに任せると言う方針だそうです。窓口に座っているだけの 『バカ公務員』 の給料を上げたり、『チンピラ銀行』 に金をバラまくような大判振る舞いをする位なら、このような、歴史的に意味のある建物に税金を使 って頂いた方が、有難かったりしますが・・・
皆さんはどう思われますか ?


さて、いかがでしたでしょうか ? 今回は 『2.150円の日帰りコース』 がメインだった為 (笑)、史跡見学は残された時間で行いました。このページで紹介している場所以外にも、『大久野島』 には、歴史を風化させてはイケない、重要な史跡が沢山残っています。興味のある方は、それらの史跡の事や、歴史背景を調べてみてはいかがでしょうか ?

『女風呂か ? 島内見学か ? 』 (笑)・・・ 一度に同時進行は無理ですが、また機会があれば、次回は宿泊して、是非、他の史跡も見て周りたいと思います。


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急階段を登り、砲座の上の高台に上がって見ました。すると、驚く程に静かな海が迎えてくれました。

急勾配の階段を上側からも撮影して見ました。足を滑らせると、大ケガ間違いなしです。昔の軍人さんは、足腰が強かったんでしょうね (笑) 。



  とっても便利な『大久野島MAP』・・・
    『国民休暇村』 のフロントで
     無料配布されています。

『展望台』 の四方には、方位を示す 『石碑? 』 が鎮座しております。
これら全てには、昔の方位表現がしてあり、なかなか粋なはからいではあります。

『東=ウサギ』、『西 = 鳥』、『南 = 馬』、そして 『北にネズミ』 が彫られています。
同時刻に撮影した写真ですが、あたり前ではありますが、東西南北で石碑と影の入り込み具合が、四方で異なる顔を見せます。なかなか面白いと思いませんか ?


現在でも十分に通用しそうな、センスの良いレンガ造りの外観が印象的な 『中部砲台跡』 ですが、『第一次世界大戦 (1900年頃) 』 の際、すでに大砲が外され、前線へと送られていた為、かなり古い時期に、その役目 (砲台) を終えています。その後も、砲台としては使用される事はなく、ほどなく 『毒ガスの貯蔵庫』 (原材料の貯蔵も・・・) として使用されていました。


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『展望台』 から 『大鉄塔』 の方へ歩いていくと、『中部砲台跡』 に到着します。『大鉄塔』 のたもと付近に位置します。当時施工された物でしょうか ? 大変に造りのよい、コンクリートの壁が印象的です。
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恐らく、何度か補修を受けているのでしょうが、基本的に100年以上経過しているとは思えない程、コンディションは良好です。これだけ、現状を維持している史跡 (遺構と表現した方が正解でしょうが、僕は史跡と言う言葉の響きが好きです・・・) は全国的に見ても貴重だそうです。
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内部からの様子です・・・ひとつひとつの部屋が大変に広く、天井も高いという事が、お分かり頂けると思います。
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内部の部屋は、奥付近の壁がくり貫かれていて、全てが繋がっています。大変に歴史の重みを感じると同時に、少し怖い感じがすると言うのも本音です・・・



内部には当然ですが、何も設備が残されておりません。驚く程広く、天井も高いので、不思議な威圧感さえ感じます。うまく表現をする事は難しいのですが、誰かに見下ろされているような、緊張感さえ覚える程です・・・

また、以前は立ち入りが可能だったのでしょうか ? 内部には無数の落書きが残っています。恐らく修学旅行の学生が書いたのであろうと思われる物も、多数、確認出来ます。

ただ、この落書き達も大変に古く、昭和50年○月○日・・・とご丁寧に日付を記した物も少なくありません。
さしずめ、落書きの展覧会と言ったトコ・・・(苦笑) 。



『ビジターセンター』 です。残念ながら、僕の行った日は休館 (涙) ・・・冬季には水曜日と木曜日の週休2日になるそうです。知らなかった・・・

夏季には、『生きた化石』 の 『カブトガニ』 とかも見学させてくれるとの事ですが、休館日だった為、内部の事や展示品の事については把握出来ませんでした。次回行く時は、是非、見学してみたい場所です。