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『神功皇后』 『菅原道真』 などにまつわる 『伝説』 が残る 『天満神社』
内の様子です。
くぐると、願い事が叶うと言う 『可能門』
です。時代劇のワンシーンに出て来そうな、重厚かつ渋いたたずまいをしています。
他力本願、神頼み的ですが、僕は嫌いではないです。ただ、こんな物は、人間が人間の心を持っていた頃の寓話のように思えてしまいます。
イジメで自殺、平気で親が子を殺す、変態ペルー人が幼女を殺害etc・・・毎日、毎日、イヤなニュースばかりです。
僕は世界中のみんなが争いもなく、自由に平和に、そして健やかに過ごせるように願うつもりでしたが、 一歩、門をくぐったトコで、『まずは、宝クジが当たりますように
! 』
って声を出して言ってしまいました・・・
なんて僕は正直な人間なんだろう・・・本当に宝クジが当たったら、ここにお布施をしなきゃ
!
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古い貴重な史跡が沢山ある 『大崎下島』
の中にあって、この場所は異質の空間と言えます。コレ、何だと思います?・・・
答えは 『ジャングルジム』 しかも
『日本一』 (本当に ? ) との事・・・最初に紹介した 『藤原道真』 『天満神社』
と言ったキーワードとは全くかけ離れたモノですが、この 『パラダイス感』
こそ、僕が島に来て、本当に探していた場所なのかもしれない(笑)。
場所はもの凄く分かり易い所です。『豊浜大橋』
を下りる途中、右の山の手方向を見て下さい。すぐに発見出来るとは思いますが・・・
現在は管理されていないようで、ご覧のとおり、草ボーボー状態です
!
見落としてしまいそうなので、よくよく目をこらして見て下さい。
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『若胡子屋』
の玄関口とその内部の写真です。 当時のレイアウトを伺い知る事は出来ませんが、幕府の船が寄港した地だけあり、その素材や造りの良さは見て取れます。
ここは
『御手洗』 の 『お茶屋』
さんの中でも最も勢いがあったそうで、天井の建屋久杉、本瓦の屋根からも、その繁栄ぶりを見る事が出来ます。
このお店が、正式に藩から認可を受けたのが
『享保9年 (1724年)』 。常に100人近い 『花魁』 が在籍した 『御手洗』
の夜の人気スポットでした。
ちなみに、ここには
『お歯黒伝説』 と言う物が残っております・・・
当時 『花魁』 の身の回りの世話をしていた人の事を 『かむろ』 と呼んでいたそうです。 ある日の事、『花魁』 が身支度の準備をしていた時の事、『お歯黒』
がうまく付かなくてイライラしていました。
その上、お客からも再三の催促があり、ブチ切れてしまった 『花魁』 は、その時、身支度を手伝ってくれていた
『かむろ』 に、煮えたお歯黒を無理やり飲ませ、殺してしまいました。
その絶命した 『かむろ』 が、苦しさのあまり、お歯黒のついた手で壁にさわり、それが手形として後々まで残り、何度、壁を塗り替えても、このお歯黒の手形が
『じわ〜』 っと、浮き出て来たとの事・・・
結構、背筋の寒くなる話ですが、今だに継承されているトコを見ると、信頼度は高い都市伝説
?
と言えますね。
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『七卿落遺跡 (ひちきょうおちいせき) 』と言う史跡もあります。昔は 『庄屋』
さんの家だったとの事・・・
この 『七卿落ち』 とは、『江戸幕末』、1863年8月の政変により、『7人の公卿』
が、『京都』 を 『追放』 された事件です。この建物は、『追放』 された 『公卿達』 が 『都落ち』
の際、立ち寄って、旅の疲れを癒した場所との事です。果たして、この 『公卿達』 は 『若胡子屋』 のお世話にはならなかったのか
? 僕は歴史のソノ部分が知りたい(笑)。
ちなみに 『出入り自由』、『入館無料』 ! その上、入り口には
『奥座敷を開けて、風光明媚な景気をお楽しみ下さい。』
との張り紙が・・・勿論、お邪魔させて頂き、奥座敷から庭を見学させて頂きました。
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こちらは幕末 (約140年前) からお店をされている 『超老舗の時計店』
さん。その腕は確かで、県内外から、修理の依頼があるそうです。ショーウィンドウの中には専門工具が沢山並んでいました。僕は興味津々で見てしまいました・・・
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見れば見る程、奥深く魅力的な島
『大崎下島』ですが、このあたりで、その奥深い歴史の部分をご紹介しましょう。 まず、先のページでもご紹介しました、『江戸時代』 の 『建屋』 や
『史跡』 が多く残る 『御手洗 (みたらい) 』 と言う地名の由来についてです。
この名の由来は大変に古く 『神功皇后』 が
『三韓征伐』 の際、この地に立ち寄り、地で手を洗われたと言う伝説に基づいているとの事・・・ しかし、しかしです・・・ここからは、僕の調査 +
勝手な解釈になりますが、『神功皇后』 と言う方は、歴史の表舞台に現れたのが、かの有名な 『720年』 にデリバリーされた 『日本書紀』
の中からなのです。
この 『日本書紀』 いわく、3世紀に 『神の啓示』 を受けた 『神功皇后』 が 『新羅征伐』 に言った際、『新羅』
の 『王様』 が 『日本は神の国だから、逆らいません。』 と言って、服従したと記しています。そして、最終的には、当時、韓半島にあった、『新羅』
だけではなく、『高句麗』、『百済』 の全てを従えさせたと言う、大変にアヴレッシヴな内容なのです。いわゆるコレが 『三韓征伐』
と言うモノです。
ただ、この話自体は、どう考えてもマユツバ・・・ 『すっとこどっこい』 なモノです。事実、3世紀と言えば 『弥生時代』
でしょ・・・ 『弥生時代』 は 『大和の国』
が出来る前で、結構な戦乱時代、こんな時期に海を渡り、他国を征伐したとは考えにくいし、実際に多くの有識者が、『こんな内容は無いよう・・・』って言っています(笑)。 ですから、『御手洗』
の方には非常に申し訳ないのですが、『神功皇后』 は、実在しない伝説の人物と言う説が有力なのです。 『日本書紀』
が完成した8世紀当時、それよりも、更に昔の3世紀に、本当に起こった歴史のように 『新羅征伐』 の事が記事されたのは、当時は 『新羅』 に対する
『敵対意識』 や 『脅威』 があったからではないか ? と憶測されています。
しかし、『御手洗』 恐るべし ! ここで手を洗われたのは
『神功皇后』 だけではなく、かの有名な 『菅公』 こと 『菅原道真』
も手を洗われたとの事・・・続いてはその辺りをご紹介したいと思います。
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『天満神社』です。 『神功皇后』
伝説から数える事、151年後の出来事・・・西暦901年、右大臣だった 『菅原道真』 は、当時の左大臣 『藤原時平』
に、まんまとハメられ、『大宰権帥』 に 『左遷』 されました。この歴史は学校で習ったので、『菅原道真』 = 『左遷』
と覚えている人も多いと思います。ただ、『左遷』 とは表向きで、ぶっちゃけ、流刑と同じ事です。
結果、『菅原道真』
は、903年に亡くなられた訳ですが、その後、都では災いが続き、謀略の主人公 『藤原時平』 が急死、時の 『醍醐天皇』
も急死する等、古い書物には 『菅原道真』 の怒り (タタリ ? )
として記載されております。この辺りの歴史に興味がある方は、再度書籍をお調べになるのも良いでしょう。
さて、前置きがかなり長くなりましたが、その
『藤原道真』 が 『左遷』 の折、この地に船を寄せ、み手を洗われ、口をゆすがれ、天神地祇 (てんしんちぎ) にお祈りをされたのが この
『御手洗』 と言う名の由来との事です。簡単に言えば、『菅原道真』 が手 (み手) を洗ったので、『御手洗』 と言う訳・・・
超フランクな命名 ! 観音 = CANON的な ? 発想です (笑)。
でも、ここ 『天満神社』 の凄いトコは、その
『み手』 を洗われたとされる、伝説が残る 『井戸』 がある事 (写真下) です。これはさすがに見る価値があります。『菅原道真』
と言えば、学問の神様です。何だか、その空間にいるだけで、賢くなれるような気がします !
とても静かな場所ですので、是非、訪れて見て下さい。
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さて、『御手洗』 にはもうひとつの顔 (歴史)
があります。それは、西日本最大級の色町 (落語風表現) だったと言う事・・・。簡単に言えば、お金を払い、お姉〜さんと一晩だけメイキンラヴ (笑)
が出来る、プロ・ショップが軒を並べていたのです。続いては、その辺りの多少アンダーグラウンドな部分をご紹介します。
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『若胡子屋
(わかえびすや) 』 有難い名前ですが、レッキとした 『売春宿』 です。とは言えモグリではなく、『広島藩』
からきちんと認可を得たお店です。事実、藩の税収にも、大きく貢献したそうです。『売春宿』
とは表現が悪いので、落語でもよく聞く言葉、『お茶屋』 さんと表現した方が軟らかいかも ?
しれませんね。
この地域には、4件の 『お茶屋』 さんが、認可を得て営業しておりましたが、今ではこの 『若胡子屋』
しか残っておりません。勿論、営業している訳ではないので、『若胡子屋跡』
と言う表現が正解です。 現在、歴史を風化させないと言う意味で、ここを修復保存して一般公開しています。勿論、無料です。 当時、貧乏がゆえに泥水稼業に身を落とすしかなかった女の人の事を考えると、マインド的には非常にヘヴィな史跡です・・・
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では、何故 『御手洗』 がこんなに色町として繁栄したか
? と言いますと、その地理にもよります。 『瀬戸内海』
のほぼ中央に位置していた為、航行する船の休息場として重宝されていたそうです。当時、物流の中心は船オンリーです。事実、幕府の公用船がアンカーを打ってもよい、指定港に任命されていた為、『北陸能登』
方面から米をデリバリーする 『北前船 (千国船)』、『長崎奉行』 や 『オランダの西インド会社』 、それに 『琉球の使節団』
を乗せた、いわゆる『江戸上がり船』、さらには、『参勤交代』 の 『四国、九州から』
の諸大名までもが、この地に寄港したそうです。『北前船』などは、一度に50隻以上も入港した記録が残っているそうで、『御手洗』の繁栄を伺い知る事が出来る逸話と言えます。
そんな海の男達が寄港するとなると、どうしても、必要になるのが前出の
『若胡子屋』 のような、旅のお疲れを癒してくれる、プロショップの存在です。当時はこの 『御手洗』 だけで、いわゆる 『花魁 (おいらん) 』
と呼ばれるステディなお付き合いをして下さる女性が、200人以上も在籍していたそうです。
正直、僕らの世代では、『花魁』
と聞いても、時代劇や落語の中のイメージしかありません。今回 『若胡子屋』
を見学させて頂いた事は、大変にいい経験になりました。『大崎下島』では、絶対に見て頂きたい史跡だと思います。
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『御手洗地区』 を
『ET3』 で走行中、昭和な建物を発見 !
現地の案内地図には記載されていませんでしたが、とても雰囲気の良い建物です。
『VESPA & ヌード写真』
を撮影しようとしましたが、あまりにも人通りが多いので断念 (笑
)。
もう少し、人間としての羞恥心が失せたら再チャレンジしたいと思います。ところでこの建物、看板を見たところ 『院医智越』
と書いてありました・・・ちょっと、狙いすぎだと思います。 でも 『若胡子屋』
のマインド的にヘヴィな史跡を見学した後でしたから、少し心が和みました。
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いかがでしたでしょうか ? 歴史ロマン満載の
『大崎下島』 の 『御手洗地区』 は・・・ 船が寄港する、だから 『潮待ち』、『風待ち』
・・・キレイにまとめたモノです。
今回は 『豊島』
が全くNGな場所だった為、急きょ、訪れた形になりましたが、次回、時間が許せば、朝から一日かけて、ゆっくりと、この歴史あふれる島を見て周りたいと思います。実際、島でもらったパンフレットには見所満載です。ここで紹介した場所は
『大崎下島』 の魅力のほんの一部でしかありません。また、ここは、映画 『旅の贈りもの★0:00発』
のロケ地にも選ばれた場所でもあります。
『食べ物』、『史跡』、『神社』、『海』、『灯台』、それに 『映画のロケ地』 に
『ちょっとしたパラダイス』 ・・・どのアングルから見ても、『大崎下島』 は訪れる者を楽しませてくれる事、間違いなしです。 いかがでしょう ?
来週末、『VESPA』 の後ろに 『ノーブラの女の子』 を乗せて、行って見ては
?
もどる
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こちらも 『天満神社』 内の様子です。 『上の写真』
は境内付近でのモノ・・・僕は色々な神社に行きましたが、あまり見慣れない、険しい顔をした置物がありました。魔除けっぽい形相にも見えます。それとも、右が口を開いているので、『狛犬』
の役割を果たしているのでしょうか ? 『下の写真』 は神社内に祀られている 『菅公の碑』 です。1917年
(大正6年) に建立 (こんりゅう) された物です。 案内看板が立っており、そこには
『我たのむ 人をむなしくなすならば 天か下にて 名をやなかさん』 と書いてありましたが、学の無い僕には意味不明 ?
いつ、どんな理由で、そしてこの意味は何なのか ?
全く解説などなく、詳細を把握する事が出来ません。
僕は、好奇心があるので、正直、物足りないと言うのが本音です。後から調べれば済む事なのでしょうが、その場の空気に触れ、その意味を知り、共有すると言う事は、旅の楽しみのひとつです。なので、この史跡には、少しがっかりしました・・・
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こちらの写真は 『ジャングルジム』
から撮影したモノです。高さは13.2メートル、横幅は15.5メートルもあるそうです。
一緒に行っていたA子ちゃんが頑張って登り始めました・・・(上写真・赤い丸) 人の大きさから判断して頂くと、この
『ジャングルジム』
の大きさが、お分かり頂けると思います。
それに、近所の公園にあるモノとは個々の格子の幅も比べ物にならないくらい広く、大人でもまたぐのに一苦労
! 撮影後、ミニスカートだったので、白いTバックがご開帳 (苦笑)。思わず、『ジャングルジム』
の下に、多数のオーディエンスが・・・お騒がせして申し訳ありませんでした。
さて、ご開帳はさておき、『ジャングルジム』
の天辺から望む瀬戸内の景色は、大変に美しいモノです。『豊浜大橋』 も見渡せる (写真下の矢印部分)
絶好の撮影ポイントでもあります。ヌードじゃなくて、海のですよ
(笑)。
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『若胡子屋』 さんに残る階段です。いわゆるコレがよく 『古典落語』 にも出てくる
『お茶のハシゴ段』 と言う物です。
すいません・・・実は僕は 『落語』
が大好きな為、この階段で感動しましたが、意味不明の方は 『古典落語』
を何作か聞いて頂ければ、内容がお分かり頂けると思います。日本人なら古典芸能、『落語』 を聞きましょう
!
事実、『花魁』、『色町』、『お茶屋』 等の古い庶民文化を知るには、『古典落語』
を聞くのが一番、その後、この 『若胡子屋』
に訪れると、歴史の中に入り易いと思います。
ちなみに、歴史背景と言う観点から、もうひとつご紹介します。記録に残っているだけで、この
『御手洗』 を訪れた著名人は 『吉田松陰』、『坂本龍馬』、『三條実美』、『大久保利通』 etc..錚々(そうそう)
たる顔ぶれなのです。
彼らが、旅の疲れをこの地で癒したかどうか ?
ゲスな話は置いといて、それだけ、この地が有名だったと言う事が伺い知れますね。
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こちらの写真も 『七卿落遺跡』 のモノです。
中には取ってつけたような骨董品のオブジェが強引に置いてありました。気持ちはよく分かります。古い物は好きなので、イヤな気持ちにはなりませんが、庭のいたる所にも、多数、イヤイヤ無数のカメ、ツボ、置物等の骨董品
? が・・・
一歩間違えれば、『大切な史跡』 が 『パラダイス』
になりそうな勢いです。もう少しシンプルにするか ?
資料館のような場所に展示した方が、見る者としては安心感があったりします。まぁ、コレは、『僕の独り言』
ですが・・・
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こちらは 『御手洗』
の総合案内所、 『潮待ち館』 で配布している 『見たらいい町、御手洗マップ』
です。 大変に分かり易く説明してあり、 散策の強い見方になってくれます。
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